2010年2月24日
平安中期の出来事
時平の死後、弟の藤原忠平が太政官首班となった。忠平は律令回帰路線に否定的であり、土地課税路線を推進していった。忠平執政期ごろに、有力百姓層(富豪層)へ土地経営と納税を請け負わせる名体制もしくは負名体制が開始しており、この時期が律令国家体制から新たな国家体制、すなわち王朝国家体制へ移行する転換期だったと考えられている。
忠平期を摂関政治の成立期とするのが通説である。それ以前の藤原良房の時から藤原北家が摂政・関白に就いて執政してきたが、発展段階の摂関政治であったとして初期摂関政治と区別されている。忠平以降は朝政の中心としての摂関が官職として確立し、忠平の子孫のみが摂関に就任するという摂関政治の枠組みが確定した。ただし、摂関政治においても摂関が全ての決定権を握っていたのではなく、議政官が衆議する陣定の場でほとんどの政治決定が行われていた。
ところで、9世紀ごろから関東地方を中心として、富豪層による運京途中の税の強奪など、群盗行為が横行し始めていた(貞観の俘囚反乱・寛平・延喜東国の乱・僦馬の党)。群盗の活動は9世紀を通じて活発化していき、朝廷は群盗鎮圧のために東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策をとっていった。この政策が結実したのが9世紀末~10世紀初頭の寛平・延喜期であり、この時期の勲功者が武士の初期原型となった。彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植していったが、彼ら同士の対立や受領に対する不平が叛乱へ発展したのが、忠平執政期の940年前後に発生した承平天慶の乱である。朝廷の側に立ち、反乱側に立った自らと同じ原初の武士達を倒して同乱の鎮圧に勲功のあった者の家系は、承平天慶勲功者、すなわち正当なる武芸の家系と認識された。当時、成立した国衙軍制において、「武芸の家系」は国衙軍制を編成する軍事力として国衙に認識され、このように国衙によって公認された者が武士へと成長していった。
忠平の死後、10世紀中葉に村上天皇が親政を行った。これを天暦の治といい、延喜の治と並んで聖代視された。
10世紀中葉から後期にかけて、ある官職に伴う権限義務を特定の家系へ請け負わせる官司請負制が中央政界でも地方政治でも著しく進展していった。この体制を担う貴族や官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育をほどこして家業を担う人材を育成した。先述の武士の登場も、武芸の家系に軍事警察力を請け負わせる官司請負制の一形態とみなせる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
平安中期にはこのような出来事があったのですね。
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